vol.3: ライカの話し その1

ローライとくればライカということになる。

 スポーツ新聞カメラマンあがりの僕にはレンジファインダーへの大きな偏見があった。報道の場面で悠長に手巻で撮っているやつなどいない。長玉を振り回し、時には 怒号のなか片手でファインダーなど見ずにモータードライブで連写する。プロとして の経験をスタジオではなく現場で身につけたため、ライカなど使えぬカメラと決めつけていた。それでもあこがれはどこかにあった。

 初めて触ったのは高校生のとき、写真屋のおやじが自慢げに見せてくれたM-4だった。ストンと小気味よく切れるシャッターやなめらかな巻き上げは、当時つかっていたオリンパスOM-1とは当然ながらまったく違っていた。しかし、物として欲しいと思ってもその金額は高校生にはまったく関係のないものだった。その後、大学の先輩が持っていたM-5は大きさと不格好さからまったく興味がもてず、その後も自分の機材選択の中にライカが入ってくることはなかった。

 1991年、当時30歳の僕はようやくフリーとしてなんとか格好がつき、色々な雑誌の主に男性タレントのグラビアを撮っていた。そのころブーンという男性ファッション誌から巻頭で永瀬正敏を撮りませんかという依頼があった。名前が売れはじめていたものの、現場となった晴海の倉庫の屋上にあらわれた彼は、どこかの兄ちゃんという感じだった。ところが撮影が進むにつれてだんだんと魅力を発揮してくる。登り調子の役者がもつ独特のオーラを放ちどんどん迫ってくる。その時小道具に彼がもってきたのがライカのM-3だった。アジアンバグースの香港ロケで毎日のようにカメラ屋に通い18万円で手に入れたと嬉しそうに教えてくれた。

 


 M-3には50ミリのデュアルズミクロンとMRメーターがついていて飴色のカメラケースに包まれていた。それが彼にピッタリと似合っている。彼の動きを僕はローライで追いかけた。旧いカメラどうし話しもはずみ幸せな1時間が過ぎた。永瀬正敏がライカを構えているポートレートは今でも大好きな一枚となっている。

 次の日銀一カメラに出向きMー3を18万円。デュアルズミクロンを9万円で手に入れた。