vol.29:東京 1997

池袋から西武線で3駅。江古田の町にもう20年以上、人生の半分より多くの時間をここで過ごしている。僕の東京は江古田ということになる。

小さな町に武蔵大学、武蔵野音大、日大芸術学部と3つの大学がひしめく学生街。20年前は喫茶店の密集率が日本一だったが、今は教養課程と専門課程の分散化で、学生の数もめっきり少なくなった。


バブルの再開発をくぐり抜けてきた古い町並も近頃めっきり変わってきた。モルタル2階建ての1階店鋪、2階住居の個人商店が線路沿いにずっと続き、空が広かった町も、皆ビルやマンションになってしまった。夫婦二人でやっているような食堂は、蛍光灯が眩しい外食チェーンに変わっている。昔を残すのは、小さなお店が寄り添った市場くらいだ。ここだけは消えてほしくない。

大きな変化に気付きはじめたのが1995年頃。道路の拡張とかで一部ごっそりと変わってしまった。昨日まであったはずのお店が、無くなってしまうともう思い出せない。好きな町が変わっていく前に少しでも残しておきたかった。


最初は気合いが入って、8×10(エイトバイテン)というフィルムがB5版くらいあるカメラで撮りはじめた。仕上がりは素晴らしく町のディティールを余すことなく写し込んでくれた。細部の看板などの情報もはっきり写っている。しかし一式20kgは下らない機動性の悪さと、一枚あたりフィルムと現像に二千円もかかる経済性の悪さに音を上げてしまった。第一撮ろうと決意するのに気合いが必要で、おいそれと持ち歩けるものではない。


それでは意味がない。いつも持ち歩けるということでライカを使うことにした。買った時に付いていたDRズミクロンの50ミリで町を複写するように撮りはじめた。ようするに感情抜きで町の端から端までをダーッと撮る。一見無駄のようだが作品を作るわけではないのだからこれでいい。


とはいえ50ミリで狭い町を撮るのはしだいに苦痛になってきた。いくら複写のようにといってもそれだけではつまらなくなる。ひょんなことから35ミリのレンズを手に入れてからは、撮ることが楽しくなった。自分の生理と画角がピッタリ一致した気になった。プリントするのが楽しくて毎日江古田を撮り歩いた。


20歳の頃ならもっとワイドなレンズを選んだだろうが、30歳も半ばになると視覚が段々狭くなる。写真家高梨豊の言うところの「焦点距離年齢説」である。ようするに年が20歳ならレンズは20ミリ。35歳なら35ミリ。50歳になったら50ミリが生理的にピッタリくるという経験論だ。それに僕もきっちりと当てはまった。


写真を撮っては現像し、ベタ焼きを穴の開くまで見つめ、6切にプリントする。焼いた枚数が増えていくにつれ、自分がどういった写真が好きなのかはっきりしてきた。どんな光が好きで、どんな場所で立ち止まるのか。その時の露出はどの位がいいのか。メーターの付いていないライカを使い、露出計は持ち歩いていなくても、好きな光の露出は分かるようになってきた。


モノクロのベタ焼きを作った人なら分かると思うが、どんなに優秀なAEカメラで写しても、ベタ焼きにすると白く飛んだ部分があったり、黒くつぶれた場所が出来る。しかし自分の好きな光だけを追い求めたネガからは、綺麗にピタリとそろったベタができる。


ちなみに僕の好きな、晴れた日の光の露出は、ISO400の場合シャッタースピードが250分の1秒、絞りはf16と半だ。日中はこの露出から、被写体の反射のしかたで増減をかける。ピーカンの時の露出は世界中どこへ行ってもたいした変わりはない。東京も赤道直下も同じだ。日陰に入ると2絞り開け、影が無くなると3段半開ける。夕暮れ時は、60分の1で絞りはf5,6。こんな単純な覚え方で充分だ。


子供が大きくなるにつれ、今度は自分の家の回りを撮り始めた。子供が大きくなった時に「お前はこんなところで大きくなったんだよ」と見せたいと思ったのだ。


駅からちょっと離れた住宅街。夏の陽射しが強い日中、辺りから音も人影も消えてしまう。そんな時間が好きで、暑い中を繰り返し歩き回った。


もう何本のT−maxをライカに詰めただろう。プリントを繰り返すうちに20枚のまとまった形が自然と出来上がった。新しい写真が焼き上がるとその中に入れてみる。弾かれるものもあれば、すんなり溶けこむものもある。1つ入っては1つ出ていく。そうやって常に20枚前後の写真が残った。ある時を境に20枚の塊の中にどうしても新しいものが入り込めなくなった。


そして物語が1つ完成した。

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