vol.53:アシスタント

先週の連休は、実家のある山形県米沢に帰省していたので更新できませんでした。冬の米沢に帰ったのは7年ぶり、スキーをしたのも6年ぶりでした。おいしい米沢牛を食べて満足満足。




学生時代、スタジオも個人のアシスタントも1週間で逃げ出してしまったもんだから僕には師匠と呼べる人がいない。これはなかなかに寂しいことだ。カメラマンとアシスタントの関係は、体育会の先輩後輩の関係にも似ている。10年、20年経っても社会的地位が逆転しようとも先輩は先輩、頭が上がらない。でもその関係はちょっと心地いいものだ。




雑誌「AERA」の表紙を撮り続けている写真家坂田栄一郎が、巨匠リチャード・アベドンのアシスタントをしていたことは有名だ。坂田氏は師匠アベドンの影響を色濃く受け継いでいる。


坂田氏はアベドンが来日した折に、スタジオマンとしてアシスタントをしたことが縁で暗室マンとして採用されている。NYのスタジオで与えられた仕事は、アベドンのそれまでのコンタクトプリント(ベタ焼き)を1年かけて取ること。ベタ焼きを全て見られることがどんなに素晴らしい経験かは、写真を少しでもかじった事がある人には分かってもらえるだろう。坂田氏はその後撮影アシスタントも経験しているが、最初の1年が全てだと言っている。


知り合いに坂田栄一郎のアシスタントをしていたことがあるカメラマンのアシスタントをしていたのがいる(要するに孫弟子)。彼は口癖のように「オレが許しても師匠がゆるさねー。よしんば師匠が許しても坂田栄一郎がゆるさねー。坂田栄一郎が許したとしてもアベドンがゆるさねーんだ」と、仕事先で理不尽なことをされるたびに僕にこう啖呵を切るのだ。絶対的な信頼を置ける人が、精神的バックにいるのはうらやましいといつも思う。




アシスタントをやったことがないくせに、フリーになったときからアシスタントをつけている。なにせライティングを知らずになってしまったから、誰かに助けてもらわなければ仕事ができなかったのだ。


最初は友人のカメラマンに手伝ってもらうことから始まった。彼とはフリーなってすぐ、「一日どんなに撮影しても日当払い」という専門誌で知り合った。その頃はお互いのスケジュール帳を覗くだけでその月の稼ぎが分かったものだ。撮影日かける1万5千円が月収となるのだ。


この友人、専門学校を出たわけでもなく、たった一年間アシスタントをしただけでフリーになってしまった剛者だ。腕前のほうも甚だアヤシイものだけれど僕よりはましといえる。少なくともストロボの使い方くらいは知っているのだから。


撮影はアシスタントの彼に一々あれこれ聞かないと進まない。ギャラは折半。これじゃどっちがカメラマンか分かったもんじゃない。おまけに同い年、その上背格好から顔付きまでそっくりときている。貧相な身なりの二人を編集者が兄弟と間違えるのも無理からぬことだ。


段々とお互い仕事が忙しくなり、いつまでも彼に頼むわけにもいかなくなった。そこで日大芸術写真学科の学生に助けてもらうことにした。「アシスタントを経験してみたい」という学生は結構いるものなので探すのに苦労はなかった。4年生になるとそんなに必修の授業もないから、社会に出る前のステップとしてちょうどいい。授業で都合が悪いときは、自分の後輩の三年生を連れてくる。卒業するとその三年生が繰り上がってまた三年生を連れてくる。この関係がうまく続いたのでアシスタント探しに苦労しなくてすんだ。


一日の仕事が終わったらその場でギャラを渡す。出先での飲食代はこちらが出す。これをアシスタントをしてもらうときの自分への約束事にした。貰うほうにしても1日働いた対価としてのお金として現実感がある。それに、学生時代「とっぱらい」でもらえるバイトはとても嬉しかったしね。




仕事が忙しくなると学生ではなく専属のアシスタントを頼むことになった。1日のほとんどを一緒に行動することになるから相性というものが大事になる。だから最初に顔合わせをする時に写真の知識があるかよりも、ずっと一緒にいて大丈夫かということに重点を置く。お見合いみたいなものだ。それと「どうしてもカメラマンになりたい」という切羽詰った思いがあるかどうかが大事になる。着地点がはっきりしているものほどうまくいくからだ。


これまで学生を含めてもう10人近くにアシスタントしてもらった。その中には買ったばかりの新車を駐車場でぶつけ、直すのに60万かかったり、出先で駐車中のバイクを転倒させ10万円の修理代を請求されたこともある。フィルムをカメラに入れ忘れたなどかわいいもので、撮影済みフィルムを現場に置き忘れたやつまでいる(現像所で気づき慌てて現場に戻ったらソファーの上にポツンと置いてあった。普段めったに怒らない僕が初めてといっていいほど激高した)。


それでも一人として「ばっくれた」ものはいなかった。他のカメラマンの話を聞くと前日まで普通に働いていて、次の日集合時間になっても現れずそのまま消えたとか、機材を持って逃げたとか酷い目にあっているのもいる。今は超売れっ子のカメラマンH氏は、先生の車のワイパーに「お世話になりました」と書置きをはさんで逃げたらしい。これはもう笑い話になっている。


歴代アシスタントは皆、写真関係の職種へ付いている。日本デザインセンター、博報堂(HPC)、アマナ、凸版印刷、大日本印刷のカメラマンになったものや、清里写真美術館の学芸員、えい出版のスタッフカメラマン、リクルートの写真部。また最初からフリーになりCDジャケットやファッション誌で活動しているものもいる。


僕にとってはまだアシスタントのつもりなのに、彼らはもう一線で活躍しているバリバリのカメラマンになっている。中には僕より売れっ子になっているものもいるだろう。でもやっぱりカメラマンを続けていっているのを見ると嬉しい。僕のところでアシスタントをしていたことが無駄ではなかったのだなと思える。


それに元アシスタントとは、彼らがどんなに偉くなろうとも関係が逆転すことはないのだ。元アシスタントが一堂に集まる新年会は、一年に一度思い切りイバレル日となる。