vol.81:暗室その後

この時期の暗室の寒さといったら尋常ならざるものがある。下階が冷凍食品の倉庫なものだから芯から底冷えするのだ。部屋の中でハーッとやれば確実に白いものが出る。


プロセッサーに張ってある現像液の液温が10℃を割ることもしばしば。暗室に入ってまずなすべきことは、デロンギのオイルヒーターをつけ、エアコンを暖房にし、ガスファンヒーターをいれ、プロセッサーのスイッチを入れること。


それでようやく小一時間経った頃に作業ができる環境になる。住まいに暗室があった頃はそんな苦労とは無縁だったが、別にしたとたん冬場の苦労が増えた。


夏は窓に目張りをして外気をシャットアウトしているので、エアコンの効きもよく、冬ほどのつらさはない。快適なのは5月、6月と9月、10月のわずかなあいだ。バライタのモノクロプリントなど手間がかかるものは、この時期に集中的にやることが多い。冬の時期の水洗は手がかじかみ、面倒なバライタはついつい億劫になる。




あの、どうしようもなく、足の踏み場さえもなかった暗室はかくも美しく機能的になった。


もはや暗室にいくのが嫌にさえなり始めていた。あまりの狭さに落ち着いてプリントできる雰囲気ではない。物に囲まれる生活が好きな人もいるだろうが、少なくともプリントする場としてはふさわしくない。


そこでアシスタント渡辺が出て行き、新しいアシスタントを迎えるにともない抜本的な構造改革に乗り出した。3日間かけて余計なものを始末し、レイアウトを変え、大きな袋15杯分のゴミを出し、部屋は見違えるようになった。懸案だったCP51のための200ボルトの工事も済んだ。棚には何が入っているか一目で分かるようにシールも張った。後は新しいアシスタントが来るだけだ!


の、はずだった。まさか…ねえ。まるで家を建て、家具を揃えたのに婚約を破棄されたさえない男のようだ。




会う人ごとに「あのデッカイ機械どうなりました?」と聞かれる。CP51のことだ。無事200ボルトも引けて稼動を始めた。


ただ自動補充装置の不具合があり完全ではない。スポンジモルトの劣化など修理を要するところも何箇所かある。それでもとりあえず動いている。水洗から乾燥まで自動で出てくるのは画期的だ。冷たい水に手をさらさなくてもいいというのは、冬場は特にありがたい。これで新聞紙見開き大の大全紙まで手をわずらわせることなくプリントできることになった。はやく大伸ばしをしてみたい。




暗室の掃除の時に棚の奥のほうから高校時代に撮ったモノクロネガが大量に出てきた。適当な自家処理だったため多くは変色していたが、フィルムには「17歳だった」日々が色濃く写っていた。


よくもまあ、あんなに撮っていたものだ。驚いたことに休み時間はおろか授業中の写真まである。そういえば先生にも写真を撮ることを咎められたことはない。なにかにつけ大らかな校風だった。今になって貴重に思えるのはイベントなどの写真ではない。昼休みに弁当を食べているとか教室の壁に書かれた標語とか、なんでもないことに胸が熱くなる。ネガを見ているだけで高校時代が楽しかったのが良く分かる。




来年の正月に地元で十年ぶりの同窓会がある。卒業してからは20年以上がたつ。2003年最初の写真展は同窓会会場でやることにした。


タイトルは「17歳だった」にしようと思う。

(2002/12/11)