vol.47:お買い物

銀座数寄屋橋近くにレモン社という中古カメラ屋さんがある。


ライカが安く買えるお店としてつとに有名で、他にも国産外国産を問わず中古カメラの在庫が豊富にある。


1階の通りに面したお店では、お昼休みの時間や会社帰りに大勢のおじさんたちが手を後ろに組んでショーウィンドーに額を張り付かせている。狭いお店の中はポマードの匂いが充満し、物も言わずじっとカメラを凝視している姿は一種修行僧の様相を呈している。


ほとんどの人が買うために来ているのではなく、ただ見ているだけ。お目当てのものは大抵、安くても10万円程度はするからおいそれとは買えない。だけど気にはなるから毎日来ては店頭をチェックする。誰かが買ってしまえばなんとなくホッとする。「残念」というより「よかった」という気持ちが強かったりする。残っていると売れるまでずっと気に掛かるものなのだ。


意を決して購入するときは「クレジットの確認は家ではなく会社のほうにしてくれ。くれぐれも日中家に電話しないでくれ」と念を押し、買ったブツは自分のかばんに入れて持ち帰る。お店のロゴが入った袋など言語道断である。家についたらそっとカメラの棚に紛れ込まし、家人への隠蔽を謀らなければならない。店で漏れ聞こえてくる店員と客との会話には滑稽でちょっと悲しいものがある。



幸い僕の職業はカメラマンなので堂々と買うことができる。税務署もちゃんと認めてくれるし妻に怒られることもない。「町工場のオヤジが旋盤の機械を買うみたいなものだ」と常々言い聞かせてあるのだ。





よく行くお店はほとんど同じで、銀座だったらレモン社、銀一。新宿はマップカメラ、カメラのキムラ。中野のフジヤカメラと日東商事あたりになる。いずれも共通しているのは中版、大判カメラが充実していることだ。実際に仕事で使えるもの以外は興味がなく、ましてコレクターズアイテムなど鼻から眼中にない。




インターネットでのオークションやHPからの売買はやったことがない。中古はやっぱり見て触って考えての行為がないと自分の中では成立しづらい。一度だけのぼせ上がって深夜、ハッセルブラッドのレンズを大判カメラに取り付けるアダプター7万5千円也をネット注文したが、次の日起きたら急にばかばかしくなり朝一番のメールで取り消した。ハッセルのレンズをシノゴ(4×5インチ版大型カメラ)につけてどうする。


その時その時で探しているものが、ライカのときがあればハッセルだったりマミヤのRBだったり、大判レンズだったりする。


ついこの間まではハッセルの気分だったがこの頃は大判レンズがマイブームになっている。サイクルはおよそ半年から1年。結構コロコロ変わる。


大判レンズはどの時代の、どのメーカーのものでも現行の大判カメラに取り付けることができるので奥が深い。1930年製のものまで実用品として売られている。70年前と侮るなかれ、信じられないほどのシャープネスと描写 力を持つものがある。




そんな中、3年以上ずっと探していたレンズがあった。シュナイダー・スーパーアンギュロン・65ミリ・f8。いつ作られたかはよく知らないし(どうも古いらしい)、どういう形をしているのかもわからない。相場がいくらなのかも一度も現物を見たことがないから謎。中古カメラ屋に行けば必ず大判レンズのコーナーを真っ先に見るのが習慣となった。


どうしてそんなレンズが欲しくなったかといえば、写真家横木安良夫氏が「このレンズが壊れてしまったらどうしよう。これの代わりになるものはない。どうしてももう1本手に入れたい。」とインタビューに答えていたからだ。


横木氏は僕のとても好きな写真家の一人で、著書「サイゴンからの昼下がり」をはじめ、雑誌Navi連載の写真などいつも楽しみにしている。氏独特の、周辺がドラマチックに光量落ちした写真はどうもスーパーアンギュロンで撮られているらしい。しかも現行タイプではなく旧型のレンズだという。


スーパーアンギュロンさえ手に入れれば横木氏のような写真が撮れるはずだ。いつものように機材の違いと腕の差をごっちゃにした論理で、レンズ探しが始まった。


ところが現物が出てこないのだ。週1回は中古カメラ屋巡りをしてもWEBサイトで検索しても一向に出てこない。3年というものずっとそのレンズが気になっていた。ほとんど幻のレンズ状態。リンホフのテヒニカ用に多く使われていたようなのだが詳細ははっきりしない。


いつものようにレモン社の大判コーナーを一渡り物色していると下のほうにリンホフテヒニカ69のセットがまあまあの値段で出ていた。テヒニカ69も欲しい欲しいリストのトップ下くらいに位置づけられているので、しゃがみこんでウィンドーに顔を近づけて見ていた。



すると頭の上のほうから「そこのスーパーアンギュロン・65ミリ・f8を見せてください」という声が聞こえてきた。


「まさか!」顔を上げるとまさにそこには3年間探し求めていたレンズが鎮座している。ピカピカの真鍮の銀色に包まれた小さなレンズ。初めて目にした幻のレンズは、店員によって静々とカウンターの若い兄ちゃんの元へ運ばれていった。


40歳を目前にして漏らしそうになった。いや数滴漏れていたかもしれない。久々に味わうショック。頭から足元に血がサーッと引いていくあの感じ。撮影を失敗したときよりも激しい動悸。思わず神様の名前を口にしたくなる。



ところが、どうも若い兄ちゃんは自分が選んだレンズが幻の一品だということは知らないようだ。値段が65ミリの大判レンズとしては6万5千円と手ごろで、程度も綺麗なのでひやかしているといった雰囲気。


まだ脈はある。彼に向かって「買うんじゃねえぞ、手を離せ」光線の強力なやつを放つ。兄ちゃんは「レンズのシャッターが開放できない」としきりに店員に言っている。通常大判レンズはピントやフレーミングを合わせるためレンズについているシャッターを開放することができる。


しかし昔の00番というシャッターはそれができない。それを兄ちゃんも店員も知らない。店員の「故障でも返品はお受けできません」に兄ちゃんちょっとビビっている。こちらの念波動もMAXになりジッと睨みつける。


ついに兄ちゃんはあきらめ「また来ます」の言葉を残し去っていった。カウンターに飛び出して行きたいのをグッとこらえ、店員がショーウィンドーに戻そうとしたところで「これ買います!」


店員の「壊れているかもしれませんよ」の声など聞いちゃいない。ついに幻のレンズを手に入れることができた。



今、ワイドエボニーを改造したカメラにスーパーアンギュロン・65ミリ・f8をつけている。望み通りの性能。コーティングがされていないためフレアが出ることもあるが細い線の描写と抜けの良さ。加えて周辺の劇的な光量落ちは他に変える事ができない。




おしっこをチビリそうになりながら手に入れたレンズとして大事に使っている。






その後1本だけ同じ物をみつけたが、ネトネトに使い込まれていた。同シリーズの75ミリや90ミリはよく見かけるのに不思議である。よほど少ない生産本数だったのだろうか?